久慈市山根町下戸鎖

久慈市山根町下戸鎖
なんと懐かしい地名でしょう。台風10号のニュースで55年ぶりに聴いたような気がしました。
今は久慈までの道路が整備されましたが、わたしが住んでいた55年前には、1日1往復の国鉄バスが麓の久慈までを結んでいた、岩手でも一級僻地と云われる場所でした。そのバスもいくつか急峻な崖をへつるように進む場所が数カ所あって、都度常客はバスを降り、車掌さんの呼子でそろそろとバスが危険な箇所を渡るのを待って、また乗るという状態だった。

男たちは遠洋漁業に出て、老人と女子どもだけが住む土地、山間のため日照時間が不足して米は育たない土地。同級生のお弁当はヒエかアワだったっけ。

久慈とを結ぶ道が雪で閉ざされる晩秋から春までは、孤立してしまう土地。病院もないから、急病人が出ると、自衛隊のヘリコプターで運んだり、ヘリコプターによる食料の輸送などもあった。中華饅頭のようなもの栗や胡桃を使ったものを造って、冬の間の食べ物にしていた。家々の前で天日干しの味噌玉…あそこでしか見たことなかったなあ。
simotokusari
この土地に父は自ら手を挙げて中学の教頭として赴任した。
子どもだったわたしたちはそれなりに面白い日々を過ごしました。教員住宅は父の赴任先の中学校のすぐ隣で、休日に校舎にはいると、音楽室から聞こえてくる父の弾くピアノの音が嬉しかった。

しかし、こうした生活も、母は耐え切れなかったように思う。姉の中学進学もあったし、妹も小学生になるということで、母は別居を決意した。

その後も父は10年をこの土地で過ごした。これまた母が父の移動を求めて動いて、再びわたしたち家族は一緒に暮らすようになった。しぶしぶわたしたちもとに戻った父は、病気で斃れるまで障害児教育に情熱を注いだ。山根で過ごした日々が人生で一番充実していたというのが父の最期のことばでありました。